事例集

【取材】ダブルケアの実態・孤独と疲労に苛まれた日々からの脱出②

育児と親の介護…ダブルケアは晩婚化・晩産化等を背景に現在の日本が抱える課題の一つです。

実際に療育が必要な子どもの育児と、認知症の両親の介護を担っていたRさんの事例をご紹介します。

介護離職したその後に待っていたもの

Rさんは30代後半で結婚し、40歳で出産。

発達障害を抱える息子さんを育てながら、仕事にも就いていました。

仕事の忙しいご主人とはなかなか話し合うこともできず、両親の介護をしなくてはいけないことから、介護離職を決断します。

育児・介護は女がやって当たり前?

「両親の話は当然主人にも相談しました。でも2人して介護に関する知識がほとんどなかったので、自治体にある福祉関係の人に相談してみるしかないという結論しか出なかったんです。ただ両親が自分たちの異変を全く認めようとしないので、どうしたものか…と私はかなり悩んでいました。」

-息子さんの育児に対してもご主人は協力的ではなかった?

「もともと家庭に愛着を持っている人ではなかったんです。仕事人間というと聞こえは良いですが、男は外で働いて稼いでくるのだから、女は家のこと…育児や介護をするのが当たり前だという考え方だったんです。息子の発達障害についても無関心とまではいきませんでしたが、私が仕事を辞めて面倒を見れば大丈夫だろうと言われたくらいです。」

-介護離職をすることはすぐに決めたのか?

「介護離職というか、リソースが足りないのはわかっていたんです。息子の面倒を見るだけでもいっぱいいっぱいだったのに、これで仕事もして介護もなんて無理だと思ったので、職場の上司に相談して離職を決めました。最初は休職扱いにしてくれると言っていたんですが、小さい会社だったので介護休暇の制度とかもなかったんです。いつ復帰できるかもわからない状態で休むのは申し訳ないと思ったので、退職という形にしました。」

-退職後に気持ちの変化などはあった?

「最初は時間に縛られないことに一瞬ホッとしたような感覚がありました。経済的には主人が働いていれば問題はなかったので、プラスαがなくなった…程度に考えていたんです。でも離職して少し時間が経つと、誰とも繋がれていないという不安に苛まれるようになりました。もともとプライベートでお付き合いするような友人は会社にいなかったんですが、なんだか自分だけが取り残されていくような感覚に襲われました」

子供の成長を見守る余裕がない

「両親はなかなか認知症に対する意識を変えてくれなかったので、おかしなことを言われながら介護をしなくてはいけませんでした。介護認定を受けてくれないので、公的なサービスは受けられないし、家事代行などは利用できないと思い込んでしまっていたので、息子を保育園に預けている間に実家へ行き、両親の面倒を見て、息子を迎えに行って家に帰る…という生活を半年ほど続けていました。」

-自治体の相談窓口とかの利用は考えなかった?

「恥ずかしい話ですが、そういう相談窓口があることすら知りませんでした。息子の保育園の件で、親の介護があるという理由であれば保育園の利用ができるというのも、離職したときに初めて保育士さんに教えてもらったんです。最初は仕事を辞めたら保育園には通えなくなると思い込んでいたくらいで…。情報収集をする気力もなかったし、もともと介護に対する知識もなかったことは、事態を悪化させた原因だと反省しています。」

-介護を担うことで息子さんの育児に影響は?

「あったと思います。仕事をしながらの育児も大変でしたが、介護はまた別の次元の大変さがあって。正直に言うと、息子の成長を見守る余裕みたいなものがなかったと思うんです。発達障害はそれじゃなくても接し方などを注意しなければいけないのに、なかなかできない自分に腹が立ったりもしました。でも、疲れている私の頭を撫でてくれたり、心配そうに見ていたりする息子には本当に申し訳ないことをしたという気持ちでいっぱいです。」

-そんな状態でご主人はどうしていた?

「主人はもともと面倒なことはお金で解決しようとするところがあって、両親のことも施設に入れれば問題ないと思っていたようです。そこまで話を進めるのにどれだけ大変かとか、息子の育児・自分の家の家事をしながら両親の介護をすることがどのくらいの負担になるのかなどは、見てみないフリをしていたように感じました。とにかく一人ぼっちという感覚が拭えず、泣き出した息子と一緒に泣いてしまったこともあります。」

ダブルケアで疲れ果ててしまった原因

Rさんの生活の変化は負担が大きく、慣れないことで手いっぱいの状態だったことは想像に難くありません。

仕事も辞め、ご主人には協力もお願いできず、息子さんの症状は悪化し…Rさんはだんだんと追い詰められてしまったと言います。

相談できる窓口を知らなかった

「介護の窓口って、本人たちの了解がなければ相談できないと思っていたんです。今でこそ役所へ行けばいくらでも家族が相談できる窓口があることはわかるはずなのに、当時の私は行動力も気力もなくて、相談することができる場所を探すことすらできなくなっていました。インターネットで検索することもせず、ただ毎日が何もなく過ぎればそれで良し…という変な感覚に陥っていたんです。」

-もっと早く相談できていればという思いは?

「もちろんあります。特にうちの両親のように、いつまでもプライドばっかり高くて、自分達は悪くないと思い込んでいるような人の場合、それがもともとの性格なのか、認知症の症状からくるものなのかは医師や専門家に診てもらわないとわかりません。素人が対応できる範囲ではないと思うので、異変を感じた時点で一刻も早く対応できればよかったと思います。」

-当時は今のように落ち着いて対処できる余裕もなかった?

「なかったですね。自分でも思い返すと、何でこうしなかったんだろうとか、何でこんなこともできなかったんだろうと思うくらいです。誰かに相談することすらしなかったですし、誰に何を相談して良いのかもわからなかったですから。」

友人・知人に親の認知症を知られたくなかった

「私も両親に似て、プライドが高いところがあるのか、親の状態を周囲に知られるのがとても嫌でした。親の異変を知らせてくれた両親の友人にさえ知られたくないと思っていましたし、自分の友人には特に隠していたんです。親があんな風になって恥ずかしいという気持ちがありました。認知症になるのは誰が悪いわけでもないのに、何となく後ろめたい気持ちがあって、隠しておきたいと思ってしまったんです。」

-Rさんのそういった気持ちに周囲は気付いていなかった?

「介護で会社を辞めることなどは知っている人もいましたが、介護=認知症とは思っていなかったと思います。私も詳しく話はしませんでしたし。息子の発達障害については保育園の先生だけではなく支援センターの担当者や保護者会など、いろいろなつながりを持っていたのですが、親の介護に関しては本当に知られるのが嫌だった。でも近所の方などは、以前と違うところに気付いていたので、薄々わかっていて知らないフリをしてくれたのかもしれません。」

-どうして知られたくなかったのか?

「私自身の認知症に対する知識がなかったため、どうしても認知症=問題行動の多い病気というような間違った認識が原因だと思います。本当はそんなことないし、対応できる方法もたくさんあったのに、私が隠してしまったせいで親の状態もどんどん悪くなってしまったんだと思うんです。認知症になったら徘徊してしまう・ご飯を食べたことを忘れてしまう・子どもの顔や孫の顔も思い出せない・妄想にかられて勝手なことを言って騒ぐ…私の認知症に対するイメージって、すべてネガティブなものでした。だから認知症になったら終わり…のような間違った認識が、世間から病気を隠すという気持ちを持ってしまった原因だと思っています。」

親を施設に入れることは悪だと思っていた

「素人なりに、認知症になったら入れる施設があるということは知っていました。でも言葉は悪いですが姥捨て山のようなイメージがあって。これは親にも言われたことなんです…認知症になる前に「自分たちは自宅で介護されたい。施設なんかに行くのはまっぴらだ」って。でもそれだって誤った知識やイメージだし、自分の目で確かめもせずに施設に入れるなんて悪だ!みたいに思ってたのは何でだろうtって反省しています。」

-親御さんは自分たちの介護を自宅でして欲しいと話していたのか?

「真剣な話ではなく、テレビで介護の話題が出ているときなどに、ちょっと話したという感じです。ただ施設に入ると良くないという意識が根底にあったので、父親は「最大の親不孝だ」と言っていました。祖父と祖母は早くに亡くなっているので、うちの両親は介護をしていません。だからある意味知識も経験もない状態で、間違った情報を信じ込んでいた部分が大きいと思います。」

【取材】ダブルケアの実態・孤独と疲労に苛まれた日々からの脱出③へ続く

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