親子ともに年齢を重ねてくると、若い頃の関係性が変化していくことがあります。
特にどちらかが病気を患った場合は、関係性が顕著に変化することも少なくありません。
今回は、明るく元気いっぱいだった母親が介護状態になり、さまざまな経験をしたNさんにお話しを伺いました。
Nさんがどんな気持ちを抱いたのか、2人の関係性にどんな変化が現れたのかなどを、インタビュー形式でご紹介します。
Nさんのプロフィール

Nさんは首都圏在住の40代後半の女性です。
Nさんは俗に言うバリキャリで、仕事一筋で生きてきた人でした。
結婚にあまり興味はなく、お付き合いした男性はいたものの、結婚まで至ることはなかったそうです。
そんなNさんは突如、母親の病気という思いがけない事態に見舞われることになります。
元気だった母親
Nさんのお母さんは70代。
お母さんは「とにかく元気で明るい人だった」と言います。
Nさん曰く「寝込んでいるところは見たことがなかった」「太陽みたいに明るい人だった」とのこと。
当然Nさんは、母親が病気になるということなど考えていなかったそうです。
思いもしなかった介護
Nさんのお母さんは70歳を迎える頃から「疲れが取れない」「身体がだるい」と訴えることが多くなりました。
大好きだったお芝居を観に行くこともしなくなり、Nさんがたまに顔を出すと寝ていることが多くなっていたため、Nさんは病院への受診を勧めたそうです。
すると、思いがけず乳ガンであることが判明。
自覚症状がなかったのか、すでにステージⅢの状態で、手術・抗がん剤・放射線治療が行われることになりました。
ガン患者の介護

Nさんはお母さんに付き添うため、有給休暇と介護休暇を申請し、看病に専念することにしたそうです。
しかし、お母さんの予後は思わしくなく、介護が必要な状態になってしまいました。
できなくなるジレンマ
-お母さんは退院後、一人で生活していた?
Nさん「最初は一人で平気だと言っていたのですが、今までのように動くことができなくなっていたので、休暇中は私が実家に行っていました。」
-お母さんの様子は?
Nさん「今までできていたことができなくなったということに、母なりにショックを受けていたようです。父も50代でがんで亡くなっているのですが、きっとがん=死というイメージがあったんだと思います。」
-Nさんとは話す?
Nさん「話はします。でも愚痴っぽいというか…「もういい」とか「どうせできない」みたいな口調だったので、今までの母とは全く違う感じでした。」
入院・手術よりも術後が大変
-手術は成功した?
Nさん「はい。腋のリンパに転移があって、リンパ郭清という手術をしたんです。入院や手術直後はあまり大変そうではなかったのですが、退院してからむくみなどに悩まされていました。でも抗がん剤や放射線の治療を受ける方が、本人には大変だったと思います。」
-入院しながら治療はできなかった?
Nさん「母が断固として反対したんです。家に帰りたいって。退院をするなら介護申請をした方がいいと言われたので、手続きをとったのですが、介護サービスを受けたいというよりは、ただ単に家に帰りたかっただけなんだとわかりました。」
-Nさんに対する要望はあった?
Nさん「はい。しばらく実家にいてくれと言われました。休暇を取ったことは母に言ってあったので、実家に泊まって欲しいと。私は退院後の母の様子を見ていて、一人にはできないなと思っていたので、実家で一緒に生活することにしました。」
がんという病気が高齢者に与える影響

Nさんのお母さんは、ガンだとわかったときよりも、実際に治療が開始されてからどんどん元気がなくなっていったそうです。
Nさんが、ガンという病気を患ったお母さんを見て、感じたこととはどんなことなのでしょうか?
希死念慮
-お母さんは以前と変わられた?
Nさん「はい。もう別人なんじゃないかと思うくらいです。幸い認知症は発症していなかったので、私とはたくさん会話をするんですが、抗がん剤の治療が始まった直後から「もういい」「死にたい」などと言うようになりました。」
-それは希死念慮?
Nさん「恐らくそうだと思います。死にたいってずっと言ってましたから。食べることが大好きだったのに、気持ちが悪くて食べられないから、元気もなくなってしまって。「大丈夫?」って聞いても「大丈夫じゃない」とか、「私なんて生きていてもしょうがない」とか言っていました。」
-以前の関係性とは変わった?
Nさん「はい。母とは友達親子みたいな感じで、お互いに頑張ろう!みたいなパートナーに近かったんですが、めっきり弱ってしまって。元気づけるようなことを言っても「そんな風には考えられない」とか終いには「バカじゃないの」と吐き捨てるように言われたこともあります。以前とは全く違く関係性になってしまいました。」
治療に対する消極性
-治療は順調に進んだ?
Nさん「治療は相当辛かったんだと思います。病院へ行くのを嫌がってましたけど、強引に連れて行ってました。あと母が嫌がったのが薬の多さでしたね。元気な人だったので、あまり薬のお世話になったことがなかったから、「これを飲むだけでお腹がいっぱいになる」とよく言っていました。」
-治療方針には納得していた?
Nさん「母は自分の病気の状態を告知されていました。その時に一度だけ治療はしたくないと言ったんですが、私がバカなことを言うんじゃないと言って治療を受けさせてしまったんです。母は最初から治療には消極的で、「再発したら絶対に治療はしない!」と何度も言っていました。」
経済的な問題
-経済的な問題はなかった?
Nさん「正直言って、こんなにかかるもんなんだという状態でしたね。母の貯金だけでは賄えなくて、私の貯金を使わなくちゃいけない状況で。母は既に年金を受給していたんですが、治療費が高くて驚きました。後期高齢者の年齢ではなかったことが大きいのかもしれません。」
-お母さんは仕事をしていなかった?
Nさん「いえ、ずっとパートで働いていました。父が亡くなったときに多少の保険金が入ったのですが、家の修繕や父の治療費の補填に使ってしまったとかで、十分な貯えはなかったんです。母も自分の元気を過信して、最低限の保険にしか入ってなかったので、経済的に母一人では厳しいものがありました。」
親の介護が子どもに与える影響

お母さんの状態が心配だったNさんは、介護休暇を取っていましたが、職場ではあまり理解されずに退職することになってしまったそうです。
介護離職
-介護で離職された?
Nさん「はい。ケアマネさんともかなり相談したんですが、母は絶対に施設には入らないと言い続けていたので、実家で介護するしかありませんでした。職場も介護に対する理解があまりなくて。休み続けることも申し訳なかったので、退職をしました。」
-生活に対する不安は?
Nさん「当然ありました。私は仕事が生きがいだったので、母の介護のために仕事を辞めるということを理解するのに時間がかかりましたね。退職金が少し出たのですが、私の老後を賄えるほどの金額ではないですし。ただ、母の状態が良くなかったので仕方なく…という感じでした。」
一人娘
-Nさんは一人娘?
Nさん「そうなんです。それも大きいですね。結婚もしていないから他に頼れる人がいない。父の兄妹もすでに亡くなっているし、母は一人娘だったので親戚がいないんです。誰かと協力して…ということができない。ヘルパーさんにお願いしたくても、母は他人を家に入れたくないと言っていたし…。」
-人生が変わってしまった?
Nさん「母には言えませんでしたが、そう思います。私のキャリアプランは頓挫してしまったわけだし、復職も厳しかったですからね。結婚していれば夫婦で協力して…ということもできたんでしょうけど、それも不可能だったので、私が背負うしかなかったと思います。」
Nさんが実母の介護で学んだこと

その後、Nさんのお母さんは肺炎で亡くなりました。
ガンの治療は順調だったそうですが、Nさんは気持ちの整理に時間がかかったと言います。
過信は禁物
-お母さんが亡くなられて思ったことは?
Nさん「母はとても元気な人だったので、母自身も私も何となく「病気にはならないだろう」と変に過信していました。でも、いつ何が起こるかわからないですし、絶対に病気にならないなんていうことはないんですよね。母は保険も十分に入ってなかったし、具合が悪くなってからの生活に対する準備ができていなかったと思うんです。「いつまでも元気でいてほしい」という気持ちはあるけれど、万が一やもしもを考えておかなくてはいけないんだと思いました。」
老後の準備は絶対に必要
-Nさんは現在復職された?
Nさん「前の職場に復職はできなかったので、転職活動をしました。今は別の会社で働いています。」
-実家に住んでいる?
Nさん「今はまだ実家にいます。でも一人で暮らすには実家は広すぎるので、処分を検討しています。」
-Nさんが今思うことは?
Nさん「母には私がいたのでまだ良かったのかもしれませんが、私が母のような状態になっても、誰も頼れる人がいません。私ももうすぐ50代なので、おひとりさまの終活をしておこうと思っています。」
まとめ

Nさんは最後に「大変だったけれど、自分が看取ることができて良かった。」と話していました。
お母さんの病気をきっかけにNさんに起こった出来事は、これからのNさんの人生を大きく変えてくれたそうです。
Nさんの大変さは他人事ではないはず…これから自分にも起こるかもしれないことだと肝に銘じる必要があるのかもしれません。

