事例集

【取材】ヤングケアラーの実態・ぼくが誰にも相談できなかった理由①

ヤングケアラーとは何か。

厚生労働省はヤングケアラーについて以下のように定義しています。

「ヤングケアラー」とは、本来大人が担うと想定されている家事や家族の世話などを日常的に行っているこどものこと。

ヤングケアラーについて|厚生労働省

特設サイトを見ると、さまざまな相談窓口が開設されていますが、当事者が利用できているかどうかには疑問が残ります。

今回筆者は、実際にヤングケアラーとして子ども時代を過ごしてきたAさんと知り合うことができました。

Aさんはどのような生活を送ってきたのか、Aさんが子ども時代に感じてきたことはどんなことなのか…直接お話を聞く機会を得て、記事にすることの了承を頂きました。

Aさんの壮絶な子ども時代から現在に至るまでの軌跡を、3回にわたってご紹介します。

ヤングケアラーとして生きてきたAさんのプロフィール

Aさんがどんな状況に置かれていたのか…まず初めにAさんのプロフィールをご紹介します。

【Aさん】

現在20代後半。

父親と母親は仲が悪く、Aさんが小学校入学前に離婚。

周囲から反対された結婚だったため、親戚や友人とは距離を置かれていた。

父親・母親の両親はすでに他界。

父親は今でいうDVの加害者で、被害者であったAさんとAさんの母親はこの父親と離婚したことで平穏な生活が送れると思っていた。

母親は以前から双極性障害の疑いがあったようだが、Aさんが知っている限り病院にかかったり、薬を服用していた記憶はない。

Aさんとの出会い

筆者とAさんの出会いは、筆者の知り合いの紹介でした。

介護関係の記事を執筆している筆者に、友人が「会って話を聞いてほしい人がいる」と紹介をされたのです。

筆者がAさんと初めて会ったときの印象は、笑顔が素敵な青年…ということでした。

しかしその笑顔の裏には、想像もつかないような壮絶な子ども時代があり、Aさんの「世の中に発信してほしい。ぼくのような子どもは救わなければいけないと思う。」という強い希望で、今回の取材が始まりました。

Aさんの壮絶な子供時代

Aさんがどのような子ども時代を送ってきたのか、話を聞くだけでも息が苦しくなるようなエピソードを時系列に則ってご紹介します。

父親はいない

「ぼくの家庭は、小学校入学前の両親の離婚で大きく変化したと思っています。父親は離婚する前からあまり家にいなかったですし、かなり上から目線の人で、いつも母親やぼくに文句を言っていました。父親から殴られることもあったし、母親が殴られて骨折して、救急車で運ばれたこともありました。

-離婚したあとは?

「二人が結婚するときに周囲にはものすごく反対されていて、母親の親戚は絶縁状態だったんだと思います。兄弟がいたけど全く付き合いがなかったから、離婚をしても頼るところはなかった。父親も養育費も払わず、連絡もつかなくなったので、母も諦めてしまっていました。

若い頃に母は双極性障害の疑いがあって、一度受診をしたものの、継続して病院へ行くことはありませんでした。今思えば、母も精神的な病を抱えて大変だったんだろうと。でも両親の離婚後に小学生のぼくにとっては、地獄のような日々が始まったんです。」

経済的にも厳しかった家庭

「ぼくは小学生の頃、参観日などで母が学校に来てくれた記憶がありません。いつも家で寝てばかりいました。母親の両親が他界したときに、ほんの少し遺産があったみたいで、父と離婚をしてもしばらくの間は普通に生活ができていました。でも、母はとにかく気分の浮き沈みが激しくて、ぼくのことを頭ごなしに怒鳴りつけたり、急に泣き出したりすることがありました。子どもながらに不安定な母を見て『ぼくが支えてあげなくちゃいけない』と思っていたような気がします。」

-お母さんは仕事をしていなかったの?

「母はその後、パートとかの仕事に行ってもすぐに辞めてしまい、最終的にはスナックのホステスをしていました。でも1ヶ所に長く勤めることはなく、すぐにお店を変えていたみたいでしたね。だからぼくは、小学生になったばかりなのに、いつも一人で食事を食べていたんです。置いてあるのはコンビニのおにぎりやスーパーのお惣菜。菓子パンがまとめて机の上に置いてあることもありました。母が作ってくれた夕飯…って、子供のころ食べた記憶があんまりないんです。」

小学生から家事と介護

「母親が家にいない時間や寝ている時間は、ぼくは一人で家のことをやっていました。家のことっていっても、小学校低学年ですからたかが知れています。母は具合が悪くなると、家で寝たきりになって、いろいろと用事を言いつけるんです。掃除・洗濯・食事…見よう見まねでやっていましたが、当時は恐怖が大きかったように思います。」

-どんな恐怖?

「母が死んでしまうのではないかと。母が死んだら一人ぼっちになってしまう、助けてくれる人もいないっていう恐怖が大きかったです。だから自分にできることはやらなきゃいけないって。母の身体を拭いたり、マッサージをしたりするように言われたこともあります。この頃はよく悪い夢を見て、あまり眠れなかったことを覚えています。」

-筆者にも子どもがいます。小学生だとできないことの方が多いのでは?

「食事は母なりに無理だと思ったのか、カップラーメンのお湯を沸かしてくれたり、ご飯だけは炊いてくれたりしてました。でも煮たり焼いたりはしないし、ぼくもできなかったので、納豆とかふりかけとかでご飯を食べていましたね。掃除も掃除機で適当にやっていただけだし、洗濯は洗濯機で洗って干して。今思うと自分でもよくできたなぁと思います。」

学校へは行っていたけれど…

「学校には行っていました。友達がいたので、少しでも気持ちが紛れるような気がしていたんです。でも疲れているから学校の授業中に眠くなるんです。担任の先生に怒られるんだけど、本当のことは言えなかった。母は一度も学校に来たことがなくて、先生もちょっと困っているように見えました。宿題は怒られないようにやっていたけど、勉強は苦手でした。家でわからないところを聞こうにも、母はいないか寝ているかだったし。夜は眠くてできなくて、朝早く学校へ行ってやることもありました。」

-生活の様子を周囲の人に怪しまれるようなことは?

「ぼくの住んでいた地域は、大きな工場が近くにあって、外国人労働者が多い地域でした。当時はそんなこと知らなかったけど、経済的に困窮している家庭も多くて、ぼくの様子が際立ってしまうことがなかったんですよね。周りの友達の中にも、ひとり親家庭の子はいっぱいいたし。だから余計に学校側も注意しなかったのかもしれません。」

-遠足や運動会などはどうしていた?

「母はなぜか遠足や運動会のお弁当だけは作ってくれました。今でも理由はわかりません。でもだからこそうちの事情がバレてしまうことがなくて、ぼくの状況に気付いてくれるチャンスがなかったともいえます。運動会は当時親が働いている子のために、家族と一緒にお弁当を食べるのではなく、みんなで教室で食べていました。だから親が来ていなくても特に目立つことがなかったんです。」

-周囲の友達に話そうとしたことは?

「ありません。何て言うんだろう…ぼくが自分の家庭のことだから自分で何とかしなきゃって思っていたんですよね。母親がまともじゃないことは何となくわかっていたし、これを誰かに話したところで解決するとは思えなかったから。でも誰か大人の人が何かに気付いてくれてたら…って今になると思います。」

【取材】ヤングケアラーの実態・ぼくが誰にも相談できなかった理由② へ続く

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