事例集

【取材】ヤングケアラーの実態・ぼくが誰にも相談できなかった理由②

今回筆者が取材したAさんは、ヤングケアラーとして小学校・中学校の9年間を過ごしました。

追い込まれている自分に気付きながらも、誰にも相談できず家事や介護を行っていたAさん。

彼がどんな子ども時代を送ってきたのか、赤裸々に語ってくれた内容を3回にわたってご紹介します。

前回のあらすじ

Aさんは小学校入学前に両親が離婚し、母親のひとり親家庭となります。

Aさんの母親は若い頃から双極性障害の疑いがあったものの、医療機関への受診や服薬はしておらず、体調の悪い日は家で寝てばかりいるようになり、食事・掃除・洗濯など家事全般はAさんが担っていました。

周囲にはひとり親家庭も多く、学校を休まずに通っていたAさんの異常な家庭環境が際立つこともなかったため、Aさんは誰にも相談できないまま、小学校生活を送り続けます。

ぼくが誰にも相談できなかった理由

Aさんは自分でも追い詰められていることに気付き始めていました。

それでも学校の先生など周囲の大人に相談しようとは思わなかったのでしょうか?

異常に気付いたのは中学生になってから

「ぼくが自分の家庭が異常だとハッキリ認識したのは、中学生になってからです。制服なんかは学校で希望した人に先輩の物を譲ってくれる譲渡会みたいなのがあって、何とか手に入れることができました。周りにも同じような友達はいたけど、まず入学式にも母は来なかった。中学校が給食だったので、何とか飢え死にはせずに済みましたけど(笑)。小学校の時とは違う環境になって、何となく異常さに気付かされたんです。」

-部活動はどうしたの?

「どこの部にも入部はしませんでした。母に学校が終わったら早く帰って来いって言われていたので。うちの学校は特に部活動に入部しなくても良かったんです。中学生くらいになると、いろいろできることが増えてきて、母は一層何もしなくなりました。変な話、食事・洗濯・掃除なんて、中学生になればほぼほぼできるんですよ。だから、母は安心したのか昼は寝ていて、夜は調子の良いときに働きに出る…みたいな感じでした。」

-それでも困ったことはあったんじゃない?

「たくさんありましたね。でも困ってるって言えなかったし、言ったら自分たちに良くないことが起きるんじゃないかって思っていました。母は以前よりもうつ状態になることが多くて、独り言のように『生きていてもしょうがない』とか『早く苦しまないで死ねれば良いのに』なんて言うことがあったので、母が死んでしまうかもしれないという恐怖でがんじがらめになっていたんだと思います。」

どこの誰に相談すれば良いのかわからなかった

「この頃の学校ではいじめが問題になっていて、学校にスクールカウンセラーという人が来ていました。『困ったことがあったらいつでも』みたいな感じだったけど、自分の家のことを相談していいとは思わなかった。学校の先生にも近所の人にも、バレてはいけないという気持ちの方が強かったんです。」

-仲の良い友達にも話せなかった?

「話せませんでしたね。幸いぼくはイジメには無縁で、周囲の友達もいいヤツばかりでした。でも家のことってなかなか言えないんですよ。気軽に『怒られたからムカつく』みたいな話は周りもしていたけど、うちの深刻な状況は言えないなって思っていました。ただ周りはぼくのことを『貧乏な家の子』と思っていたようで、たまにジュースをごちそうしてくれる…みたいなことはありました。」

自分で何とかしなければいけないという思い込み

「誰かに相談する、助けを求めるっていうのは、中学生のぼくにはわからないというか、できないことだったと思っています。自分の家のこと、自分の母親のこと…確かに異常な状態ではあったんですが、『どの家も何かしら問題はあるんだ』と思い込んでいて。ましてや母の様子は悪化していくばかりだったので、今ぼくが何かを騒いだら、母がとんでもないことになるんだという気持ちが大きかったんです。ひどい母親だと大人になってからみんなに言われたけど、当時のぼくにとってはたった一人のお母さんだったんで。」

-お母さんは誰かに助けを求めることはしなかった?

「しなかったですね。これは後から分かったことなんですが、母は兄弟や親戚と絶縁されていました。父との結婚だけではなく、遺産相続で相当揉めたみたいなんです。母は両親の遺産で食いつないでいた部分があったので、もしかしたらお金と引き換えに、関係を断っていたのかもしれません。ぼくは叔父や叔母に会ったこともないし。母は今病院に入院しているのですが、そのことも知らないと思います。そんな状況だから、誰にも助けを求めることはしなかったんです。」

ぼくを救ってくれたのは担任の先生の一言

過酷な状況を耐え忍んでいたAさんに転機が訪れたのは、中学校3年生のときでした。

どんなきっかけでAさんの人生が変わったのか、それは身近でAさんを見守っていた人の一言だったといいます。

保護者の氏名・印鑑を自分で書いていたぼくに…

「中学3年生の進路相談のときでした。ぼくは働くつもりでいたので、担任の先生に報告して、親との三者面談を何とか避けようとしていたんです。でもその時の担任の先生は、ちょっと変わっていて。ぼくの様子を見ていて、何かおかしいと感じてくれていたみたいなんです。」

-先生からの具体的なアクションはあった?

「三者面談の希望用紙に、ぼくは自分で母の名前を書いて、印鑑を押して提出したんです。母は『あんたの好きにすれば?』と言っていたし、面談のために学校に来るとも思えなかった。本来なら親が一番真剣になる時期なのに、そんな様子もない。そのことに気付いた担任の先生に放課後残るように呼び出されました。」

-先生は何と?

「『何か俺に力になれることはあるか?』と聞かれました。他のことは何も言わずに、ただその一言だけ。でもそのときに、ぼくの中で溜めていた感情が一気にあふれたような感覚は今でも覚えています。先生に言わせると、中学1年から学校に一度も親が来ていないこと、部活にも入っていないのに授業中疲れた様子をしていたこと、入学の時からだいぶ背が伸びているせいで制服が短くなっているのに何も対応していないことなどをおかしいと思っていたそうです。結構見ていないようで見ていてくれたんだなと思いました。」

-その時に全部話せた?

「全部は話せなかったんですが、とりあえずどうして就職したいのかっていう理由は言いました。そうしたら先生が1週間だけ時間をくれと。その間にできることをやってみるから、もう少しだけ待ってくれと言われました。」

「大丈夫?」と聞かれたら「大丈夫」としか答えられない

「不思議なもので、中3の担任と話すまでに、いろんな人から『大丈夫?』って聞かれたことはあるんです。でも『大丈夫?』って聞かれたら『大丈夫』って答えちゃうものだと思うんですよ。『大丈夫じゃない』とはなかなか言えない。だからあの日放課後に先生と話した時も、大丈夫か?って聞かれてたら、ぼくも何も言わなかったと思います。」

-Aさんにとって心に響く一言だった?

「『できることはあるか?』ってすごく相手を思い遣っている言葉だと思うんです。先生がぼくのことを本気で心配してくれているのがわかったし、この人だったら話してみようって思いました。支離滅裂で突拍子もない話だったのかもしれないけど、先生は全部メモを取って、真剣に聞いてくれました。自分でも不思議だったけど、今では話して良かったと思っています。」

【取材】ヤングケアラーの実態・ぼくが誰にも相談できなかった理由③ へ続く

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