事例集

【取材】ダブルケアの実態・孤独と疲労に苛まれた日々からの脱出①

超高齢化社会を迎える日本には、少子化に対する策も求められています。

子供を産み育てる…今まで当たり前のようにできていたことが、介護という避けては通れない問題が重なり、苦しんでいる人たちがいるのが現在の日本です。

ダブルケアとは何か…この記事では子育てと介護というケアが必要な二つの状況を抱えてしまった女性の事例をご紹介します。

誰もが抱える可能性のあるダブルケアの実態について、ぜひ最後までお付き合いください。

ダブルケアとは?

ダブルケアとは何なのか、内閣府が行った調査では以下のように定義されています。

晩婚化・晩産化等を背景に、育児期にある者(世帯)が親の介護も同時に担うこと

「育児と介護のダブルケアの実態に関する調査」|内閣府男女共同参画局

小さな子どもの育児と共に親の介護も行う…それぞれ抱える事情は異なるとしても、育児と介護を担う人には大きな負担がかかることは容易に想像できます。

現在の日本でダブルケアを行う者の人口は約25万人、そのうち女性は約17万人といわれ2/3を占めていると内閣府の調査では報告されています。

育児だけでも、介護だけでも大きな負担になることが多いのに、双方を抱えなくてはいけない状況は決して対岸の火事ではないということです。

ダブルケアに直面したRさんのプロフィール

今回筆者が取材をさせていただいたのは、Rさんという40代後半の女性です。

【Rさんのプロフィール】

  • 年齢:50代前半
  • 女性
  • 厳格な両親に育てられた一人娘
  • 経済的には裕福な家庭で子どもの頃から『良い大学に入れ』と言われ続けて塾や家庭教師など教育熱心な親に無理やりやらされていた
  • 口答えをすることは厳禁、「親の言うことを聞いていれば間違いない」と育てられた
  • 30代後半で見合い結婚
  • 40歳になった年に男の子を出産
  • 子どもが2歳になるころに発達障害であることが判明

Rさんとの出会い

Rさんとは知人の紹介で知り合うことができました。

Rさんが発達障害のあるお子さんを抱えながら、認知症のご両親を介護していたという話をぜひ記事にして欲しいと紹介をしてくれたのです。

「介護だけとか育児だけの悩みなどはあちこちで聞けるけれど、2つが重なったダブルケアについてはなかなか情報の収集もできない。少しでも困っている人の役に立てるなら」というRさんの申し出で、今回の取材が始まりました。

ダブルケアになった経緯

Rさんがダブルケアになってしまった経緯を、Rさんのお話を元にご紹介していきます。

親も自分も晩婚だった

「私は両親が40代近くで生まれた子どもです。父も母も仕事をしていたため、婚期を逃してしまったというのが2人の口癖でした。とても厳しい両親で、あまり楽しかった思い出はなく、怒られたりお説教されたりした記憶の方が残っているくらいです。私が子どもを産んだのも40歳のときなので、両親も私も晩婚・高齢出産でした。」

-Rさんは一人娘?

「はい、そうです。私が生まれた時点で父も母も40代だったので、これ以上子どもを産むのは無理だろうと判断したみたいです。一人娘だったから余計に教育熱心で過干渉になった部分もあるのかもしれません。」

-進路に関しても親の意見が強かった?

「そうですね。とりあえず専門学校や短大ではなく4年制の大学に行けと子供のころから言われていました。塾で成績が上がらなければ家庭教師、プラスで進学専門の塾に行かされたりもしました。私の意見はほとんど聞いてもらえなくて、大体は母親が決めていました。」

-やりたいこととかはなかった?

「本当は子どもの頃から幼稚園か保育園の先生になりたかったんです。だから幼児教育や児童心理学を学びたいと思っていたのですが、これから少子化が進む日本で子どもに関する仕事なんて先細りだと言われましたね。中学受験も進められたんですが、そこはどうしても地元の中学校に通いたかったので、高校受験を頑張るという約束で公立中学に行きました。3年間部活動もせずに勉強ばかりしていた記憶があります。」

-結婚について親の影響はあった?

「ないと言ったらウソになりますね。大学卒業後に商社へ就職したのですが、上司からの紹介で今の主人と結婚しました。この上司は父親の知り合いです。リファラル採用ではなかったのですが、常に監視されているような感じがありました。私は30過ぎまで実家を出られず、最終的に結婚してようやく実家を出たんです。」

厳格で自分の失敗を認めない親の認知症発症

「結婚して生まれた息子には発達障害がありました。1歳くらいまでは全くわからなかったんですが、2歳ごろにADHD(注意欠如・多動症)と診断されました。うちの親は生まれたときこそ可愛がってくれましたが、だんだんADHDの症状が目に見えるようになってくると、関心を示さなくなりました。主人も仕事が忙しくて、なかなか息子と一緒の時間が取れずに、今でいうワンオペ育児でしたね。」

-ご両親の異変に気付いたのはいつ頃?

「息子の発達障害がわかってからは、あまり連絡を取っていなかったんです。私にとっては好都合だったので、こちらからは連絡をしていませんでした。ただ息子が3歳になった頃に、近所に住んでいた両親の友人から私のところへ連絡が来たんです。両親の様子がおかしいと言われました。」

-様子がおかしいというのは?

「庭にゴミが捨てられていたり、母の大事にしていたバラの花が枯れていたりすると言うんです。以前は近くのスーパーでしょっちゅう顔を合わせていたのに、最近はほとんど会わないし、たまに男性の大きな声が聞こえてくることがあるから、様子を見に行けと。私は息子が生まれてからほとんど実家には帰っていなかったので、とりあえず主人とも相談して、様子を見に行きました。」

-Rさんから見てご両親に異変はあった?

「プライドの高い人達なので、一生懸命取り繕う様子はありましたが、家の中はかなり荒れた状態でした。完全な認知症ではないけれど、少し症状が出始めているのではないかと素人の私にもわかるような感じだったのを覚えています。連絡をくれた両親の友人も来てくれたので、これは福祉に繋げなければいけないと話しました。でも一層プライドが高くなっている両親は、かたくなに認めず「大丈夫」を繰り返すんです。どう見ても大丈夫な状況ではないのに、おかしな感じでした。」

-それからすぐに相談や診察に行くことはできた?

「もちろん行けませんでした。両親は揃って自分たちの奇行を認めないし、終いにはお互いに「お前がやったんだ」みたいな責任転嫁をしていました。年齢的に認知症の可能性もあるから…と話をしたんですが、怒り出してしまって。そんなに心配なら実家に帰ってきて一緒に住めばいいじゃないかと思わぬ方向に話が進んでしまって、どうしようかと思いました。」

-同居の話もあった?

「最初はありました。でも息子と一緒に暮らすのは嫌だったみたいで、そこの判断だけはしっかりとしていたので呆れましたね。うちは息子のこともあって、出かけるときはほとんど車で出かけているので、それを知っている両親は、車で30分程度の距離なんだから、お前が面倒を見に来れば問題ないとまで言い出したんです。息子の育児でていっぱいになっているのに、この人たちは何を言い出すんだろうと本当にお先真っ暗という感じでした。」

【取材】ダブルケアの実態・孤独と疲労に苛まれた日々からの脱出②へ続く

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